宇佐美まことの「白と黒のソナタ」を読みました。昭和初期にロンドンで製作されたピアノと五重奏曲の楽譜が百年の時を超え左手のピアニストの元で演奏される物語です。とても面白い小説だったので感想などを残しておきます。
あらすじ
大きく分けると、新進気鋭のピアニスト友澤伸多が日本全国や海外でのコンサートで活躍しながら忙しくも充実した日々を過ごす前半の現代パート、そんな伸多が名古屋で出会った児玉繁男という優秀な調律師の師匠だった市原喜三郎がロンドンでピアノと出会いピアノ職人になってニーマイヤーのピアノを製作するまでの昭和初期パート、林業で儲けたお金でニーマイヤーのピアノを華族から購入した糸井家の悲劇を綴った戦後パート、友澤伸多がジストニアを発症しピアノを弾くときだけ右手が思うように動かなくなり一時は自暴自棄になりながらも左手のピアニストとして復活するまでの後半の現代パートに分けられます。
現代: 天才ピアニストを襲う暗転
若きピアニスト・友澤伸多は、恋人の莉那やライバルの城島とともに音楽家として輝かしい日々を謳歌していた。愛知県芸術劇場でのコンサート中、彼は調律師・児玉繁男が作り出す至高の音に衝撃を受ける。伸多は児玉に魅了されるが、その出会いは運命の歯車が狂い出す予兆でもあった。
練習中に右手の指が突如として硬直する。診断名は「局所性ジストニア」。あらゆる治療を試みるも効果はなく、ニューヨークの名医さえ首を振った。ピアノという存在理由を失い伸多の日常は一瞬にして漆黒の闇へと突き落とされる。
昭和初期:ロンドンで生まれた呪いのピアノ
物語の源流は伝説の調律師・市原喜三郎の回想によって明かされる。大正時代、平松伯爵の奉公人としてロンドンへ渡った喜三郎は、伯爵令嬢・随子の弾くピアノにそして彼女自身に心を奪われる。
伯爵は愛娘のために、当時の技術の粋を集めた究極のピアノ『ニーマイヤー』を特注する。しかし、完成を祝うはずのその時、受取人である天才ピアニスト・アッカーは事故で右手を負傷。演奏家としての命を絶たれたアッカーは、片手のために書かれた五重奏曲『Licht(光)』の楽譜をいつか現れる「誰か」のために喜三郎へと託した。
帰国した随子に寄り添う『ニーマイヤー』。だが、それはやがて「呪いのピアノ」として血塗られた歴史を刻み始める。随子は音楽を解さぬ夫に追い詰められ、その最期は己の血を散る桜の花びらのように感じながら壮絶に散るのだった。
戦後:愛媛の山奥に響く呪いの旋律
時代は下り、舞台は愛媛の林業の町へと移る。成金となった糸井家の家長・恒蔵が、見栄のために買い取ったのはあの『ニーマイヤー』だった。
長女・須美、次女・多恵、そして長女の婿である博周と彼らを観察する三女の小夜。子どもに恵まれなかった須美は、妹と夫の不倫の結果生まれた子を育てるよう命じられる。絶望の淵でピアノを叩く須美の形相は、もはや般若の如き狂気を帯びていた。彼女がヤマザクラの木で自ら命を絶ったとき、ピアノの呪いは村人たちの噂として決定的なものとなる。
現代:百年の時を経て手渡された「光」
すべてを拒絶し、故郷に引きこもっていた伸多の心を動かしたのは、指が欠損しながらも笑顔でピアノを弾く一人の少年だった。「ある指で弾けばいい」。その純粋な言葉に、伸多は再び鍵盤へ左手を伸ばす。
模索の末、左手のピアニストとして再起を図る伸多。そんな彼のもとに、児玉を通じて一冊の楽譜が届けられる。それは、喜三郎がアッカーから託され、百年もの間持ち主を待ち続けてきた『Licht』であった。そして愛媛の廃小学校で眠り続けていた『ニーマイヤー』は児玉の調律によって蘇った。百年の時を超えてついに光の中で『ニーマイヤー』の音色が響き渡る。
感想
過去と現在のつながり
この本を読み終わって思い出したのが原田マハの「美しき愚かものたちのタブロー」でした。こちらは第二次世界大戦前にロンドンとパリで絵画を買い集めた松方幸次郎が残した西洋絵画のコレクションが疎開されたにも関わらず戦後フランスに接収されそうになり、講和に向けて忙しい時にコレクション返還の交渉が始まった話です。どちらも百年ほど前と現代が繋がっていて、ギリギリ関係者が今も生きていてもおかしくないと思えるところが好きなのかもしれません(映画タイタニックも公開された時は乗船していた人が生きていてもおかしくないなと思って、フィクションながらそういうところにリアリティを感じて好きだったりする。荒唐無稽と言い切れないのがいいのかなと)。原田マハの「風神雷神Juppiter,Aeolus」という安土桃山時代と現代が繋がっている小説も面白くて好きですし、コナン映画の「世紀末の魔術師」というロシア革命の頃と現代が繋がっている話も好きなので、過去と現代が繋がる系の話が全体的に好きなのかもしれません。
今回読んだ「白と黒のソナタ」では現代と昭和初期と戦後すぐの時期が繋がっていて、それぞれの時代の登場人物たちがそれぞれの想いを込めてニーマイヤのピアノと向き合い後世にこのピアノを残してきました。残す人がいたからこそ最後に現代でこのピアノを使って左手のピアニストは演奏ができたわけで、ピアノや楽譜を残してきた随子やアッカー、喜三郎、児玉、小夜も報われた気がしました。
「光」という名前に込めたもの
アッカーが作り喜三郎、児玉が受け継いで最後に伸多の手に渡る「光」という曲にはアッカーの想いがこもっています。聖書の言葉「光は闇の中で輝くが、闇はそれに打ち勝たなかった」から取られていて、光を追い求めたものだけが光を見つけることができる。右手でピアノを弾けなくなり一度闇に堕ちてもピアノを弾く喜びを忘れられず最後は左手のピアニストとして己の音楽を見出した伸多に相応しい曲だと思いました。同時にそれまでのニーマイヤーのピアノの持ち主には相応しくなかったなと。
最初の持ち主の随子にとってピアノは退屈で雁字搦めの人生の中で自身を慰めてくれるものだったのかもしれませんが、純粋にピアノを弾く喜びを追い求めていたようには思えませんでした。もちろんピアノを弾くことは好きだったんでしょうが、レールが敷かれた自分の人生からのある種の逃げや真の芸術を理解しない俗物の夫に対する当てつけのようなものが透けて感じました。芸術の美しさを追い求めるのはいいけれど、それを他者への優越感のために使うのはよくないしそういった扱い自体が本人の嫌う俗物と五十歩百歩なんじゃないかなと感じました。
次の持ち主の須美にとってもピアノは現実からの逃避だったように思います。子どもができないことが暗に自分が原因のように言われ、夫が実の妹と不倫してできた子どもを育てることを父に決められた時の絶望は言葉にできるようなものではないでしょう。随子と同じように父親によって今後を決められ、これからの人生を想像した時に心がぽっきりと折れてしまったんでしょう。
「光」という曲はピアノ五重奏曲でピアノが突出することなく五つの楽器で一つの曲が紡がれます。随子が弾けばピアノが突出してしまいそうだし、須美が弾くと今度は後ろに下がり過ぎてしまうような気がしました。一方で今の伸多なら出過ぎることなく他の楽器と調和した音が奏でられるような気がしました。